文・絵 森野 きつね
第5話
秋の心の風邪
リリーフは落ち込んだ足取りで、森の小道を歩いていました。気分は最悪で、歩くたびに自分が存在していることが申し訳なく感じるほどです。真っ白な毛並みをすっかり伏せ、肩を落としながら進んでいきます。
近頃、何もうまくいきません。仕事も人間関係もすべてが上手くいかず、とうとうリリーフは本気で夜逃げしようかと考えるようになりました。人間関係も社会的な肩書も捨てて、誰も自分を知らない場所へ逃げたい…。そうする方が、このままならない日常を繰り返すよりもずっと慈悲的だと感じるほどに、リリーフは疲れ切っていました。
自分の不甲斐なさを感じるたびに、リリーフは家族にも、親戚にも、ひいてはご先祖様にも申し訳なく思ってしまいます。
申し訳なさと、疲れと、不甲斐なさ以上に、リリーフは孤独を感じていました。友人たちに、自分が仕事で犯した大きな失敗の話をしても、「そんなに気にしなくていいよ」「そこまで思いつめることじゃないよ」と言われます。彼女たちの言葉からは励ましを感じつつも、「そんなことで」と言われているような気がしてなりません。
「そんな程度のことで」
それは、リリーフ自身が自分に対して思っていることでした。こんなことで落ち込んでいるなんて、馬鹿馬鹿しい。そう思っているのに、気になって仕方がないのです。
「くだらないことばかり考えているのは、あなたが暇だからじゃない?」
いつものように、リリーフの鋭い内省の声があざ笑うように語りかけます。
「役立たずな上に、仕事もできなくて、おまけに性格も悪いなんて。そうみんな思ってるわ」
そうかもしれない。そうなのかもしれない。そう思うと、リリーフは友人や家族に相談することがどんどんできなくなっていきました。彼らの言葉の奥底に「そんなことで、そんなことも、それだけで」という気持ちを感じるたびに、リリーフはたじろいで、逃げ出したくなるのです。
ーーーそんなことを思うような人たちじゃないのに。
「うわっ!!きゃあ!」
ーーードテン!!
ぐるぐると考えながら歩いていると、リリーフはつま先を何かに引っ掛けてしまい、頭から倒れました。猫はどんな場所から落ちても足から着地できると言いますが、地面が近すぎて受け身を取ることすらできませんでした。
「いててて、なんだよぉ~せっかくいい夢を見てたってのに…」
リリーフの体の下から声がしました。リリーフは猫らしく軽やかに飛び上がり、全身の毛を逆立てました。リリーフの下敷きになっていたのは、なんとコウモリでした。コウモリは翼の先の小さな爪で頭を掻きながら、困ったような表情で驚き慄いて声も出せないリリーフを見ました。
「驚きすぎだろぉ、お嬢ちゃん」
「も、う、あ、ごめなさ、あぁ…えぇ…」
驚きすぎて、リリーフは怒るべきなのか、謝るべきなのかすらわかりません。
「謝んなくていいっての。オレが悪いんだからよぉ。ごめんよ、お嬢ちゃん」
よっこらしょーと言いながらコウモリは立ち上がりました。立ち上がってもコウモリは小さく、リリーフの肘あたりほどしかありません。そんなコウモリに怯えている自分が、リリーフはやっぱり情けなくなりました。
「どうしてこんなところで、寝ていたんですか…?」
「木に張り付いて寝てたんだが、落ちちまってよぉ。寝相が悪いんだオレは」
コウモリは頭上を指さし、大きな枝を示しました。そこから落ちてきたのだと。話を聞いて、リリーフは呆れかえり、コウモリに親を感じました。血を吸うだとか、恐ろしい声で鳴くだとか、そんな噂がコウモリには付きまとっていますが、リリーフの目の前にいるコウモリには、そんな恐ろしいことはできなさそうだと思ったのです。
「オレはバーギア。あんたは?」
「リリーフです」
「リリーフちゃん、なんたってこんな森の奥に?」
「…ロロさんに会いに来たんです。森の奥に住んでるフクロウの」
「おお!そうか!そりゃよかった!丁度オレもロロに会いに行くところだったんだ!」 「ええ?知り合いなんですか?」
「あたぼうよ!大親友さ!」
「こりゃあいい!」とバーギアは陽気な足取りで森の奥へ進みはじめました。
リリーフは半信半疑でバーギアの後を追います。落ち着いたロロさんと、ひょうきんなバーギアが大親友だなんて…。そもそも、リリーフには二人が並んでいる姿すら想像できません。それでもバーギアは森の奥へ、確信を持った足取りで進んでいきます。その道はまっすぐロロさんの家に続いているのでした。
・
・
「おいおいおい、なんだよあいつ……留守にしてやがる!」
「ちくしょーちくしょー!」とバーギアは家の前で地団駄を踏みました。
残念ながらロロさんは留守で、何度ノックしても現れません。その上、ドアには「留守中、そのうち戻ります」と丁寧な文字で書置きが張り付けられています。
リリーフはうなだれました。
ーーーまったくついてないわ…。
リリーフは少しため息をついて、俯きました。仕方ありません。いないなら帰るしかないのですから。踵を返して帰ろうとするリリーフに向け、バーギアは「おーい!」と声をかけました。
「どこ行くんだよ、リリーフちゃん」
「帰ろうと思って…」
「なんで!?」
心底わからないという顔で聞いてくるバーギアに、今度はリリーフが心底わからないという顔をしました。
「だって…いらっしゃらないし」
「だからなんだよ? 家なんだから、少ししたら帰ってくるだろぉ?」
当たり前だというような顔で言われ、リリーフは少しムッとしました。
「もしもすぐに帰ってこなかったらどうするんですか? 時間の無駄になっちゃいますよ」
「時間を無駄にするかどうかは、自分で決めるもんだろぉ。釣りでもやってりゃ、そのうち帰ってくるさぁ」
今度こそ、本当に意味が分からないという顔をして、バーギアは言いました。
ーーー時間を無駄にするかどうかは、自分で決めるもんだろぉ。
その言葉は、嫌な風にリリーフの胸に残りました。
リリーフは何度か断りましたし、それとなく嫌味も言いましたが、結局バーギアに押し切られる形で魚釣りをしていました。
小川の近くの丁度いい石の上で、リリーフとバーギアは小枝を垂らしています。
2人の釣り竿はバーギアが即席で作ったものです。材料は小枝と蜘蛛の糸、それからバーギアの持ってきていた壊れたヘアピンでした。こんな代物では、メダカすら釣れないだろうとリリーフは思っていました。それでもバーギアは鼻歌を歌ったり、くだらない質問をリリーフにしたり、昔話をして楽しそうです。
「おめぇさん、なーんでそんなしけた面してんだよぉ」
「…ほっといてください」
「悩みなら聞いてやるからよぉ。年の功だけは積んでんだ」
いつもなら、自分なんかの愚痴を聞いてもらうのは忍びないと思って、言い出せないリリーフですが、その時は不思議と抵抗感を感じずに話すことができました。きっとバーギアがとんでもなくぶしつけで、土足でずかずかと心に入ってくるコウモリだからでしょう。バーギアをおもんぱかることすら、とんでもなくばかばかしく思えたのです。
それに、バーギアならどんなことを話しても、一度寝てしまえばすべてを忘れてくれる気がしました。
「なんにもうまくいかないんです。仕事も、恋愛も、友達関係だって。そろそろ私もいい年だし、もっと仕事を頑張りたいのに…。せっかく大きな仕事を任されても、私の不注意でみんなに迷惑をかけてしまうし。実はみんな、そんな私を見て呆れてるんじゃないかって…不安で」
まったく獲物がかからない釣竿を見つめて、リリーフはため息を吐き出しました。
「本当は、もうみんなに私のことを嫌いになってほしいんです。あんたなんか、くだんない!って言われたら、ひどい!ひどい!ってみんなのことを責めて、自分はなんてかわいそうなんだろうって思えるじゃないですか? 他のみんなをダメだ、ダメだって思う方が、自分はダメだダメだ、って思うよりも…ずっと楽だから」
それは久々にリリーフの口からこぼれた本心でした。最初こそは、思い悩む自分に対して「さすがに思い詰めすぎじゃない?」と笑うことができました。けれども、気が付けばリリーフは本気でそれを望んでいるのでした。
ーーーこんな自分を、もう見限ってほしい、嫌いになってほしい。
ーーーーーそうすれば、期待に応えようとする必要もないから。
大切にされている、期待されていると思うと、それに答えるために頑張りたいと思うのです。自分を励まして、支えてくれる存在がいれば、彼らのためにも頑張りたいという気持ちも強くなります。
ーーーーーでもうまくいかない。全部空回りしちゃう
不甲斐なくて、情けなくて、消えてしまいたいとリリーフは思いました。頑張りたい、頑張っている、それなのにうまくいかない。成果が出せない。そんな自分を今もなお応援してくれているのだと思うと、それは励ましよりも脅迫に感じてしまいます。こんなバカな失敗をしている私を見て、まだ信じていられるの?そうやって他人の善意を捻じ曲げてしまう自分の意地悪な自分の心がーーーーリリーフは何よりも情けなく感じました。
「まぁまぁ、季節の変わり目ってのはよぉ、ナーバスになりやすいからよぉ」
「そんな簡単にまとめて…!もう…まじめに話した私がバカでした…」
バーギアの適当な言葉を聞いて、リリーフは投げやりな気持ちになりました。
「いいじゃねぇか!落ち込んだって、うまくいかなくたって。月ですら満ち欠けがあるんだからよぉ。オレたちが、ずっと満月でいられるわけがねぇだろう。それが、生き物の本分ってもんさ」
「私の場合…ずーーーっと調子が悪いっていうか…ずーーーーっと落ち込んでいるっていうか…」
「魚釣りだってなぁ、絶対に魚が釣れるとは限らねぇんだ。いや、むしろほとんど釣れないもんだ。そんな時でもな、楽しみかたがあるってもんさ。川に座って、竿を持っている時間がな、本当は一番大切なんだよ」
「どう大切なんですか?」
「そりゃあいろいろだ、いろいろ。生きてりゃそのうちわかる」
「…適当言ってるでしょ。バーギアさん」
リリーフは頬杖をついて、ぼんやりと水面を眺めました。空を見上げると太陽が少し傾いているのに気がつきました。風は森全体を撫であげて、木の葉は嬉しそうに音を立てて揺れました。
それから、どれぐらい時間が経ったのでしょう?
釣り竿にはなにもかかりません。それに、ロロさんの帰ってくる気配もありません。
リリーフは立ち上がり伸びをしました。お尻の痛みに気がついて、ポンポンと腰回りを叩き、バーギアを睨みました。
「やっぱり何も釣れないじゃないですか」
「あぁ?なにか釣れてほしかったのか??」
リリーフは目を見開いて唖然としました。
「釣りたいから、釣りをしていたんじゃないんですか?!」
「時間をつぶすためだっていっただろうぉが」
「時間が本当につぶれただけじゃないですか!帰っておけばよかった…」
うなだれたリリーフを見て、バーギアは笑います。
「お話が出来たじゃねぇーか!無駄じゃなかっただろぉ?」
リリーフが力一杯反論しようと口を開いたーーーその時です。
バーギアの釣り糸が強く引っ張られ、バーギアの体が宙に浮きました。咄嗟にリリーフはバーギアの首根っこをつかみ引き寄せました。そのおかげで、バーギアは川に落ちずに済みましたが、釣り竿はまだ川底へ引っ張られているようです。リリーフとバーギアは慌てて竿を引き寄せて、バーギアは唸り声を上げながら釣り竿を振り上げました…。
ーーーーそんなばかな…!
釣り糸の先に大きな魚がかかっているではありませんか!魚の姿を目に止めるとバーギアは、子どものように両足をばたつかせて喜びました。
「おや、お二人とも、何をしているんですか?」
2人は知り合いでしたっけ? と言いながらロロさんが帰ってきたのは、バーギアが魚を釣ったすぐあとでした。ロロさんは腕に麦わらを編み込んだバスケットを持っていました。バスケットには大量の薬草が入っていて、森のにおいがしました。
「おお!!ロロ―! お前、何処に行ってたんだぁ? 待ってたんだぞぉ」
魚をリリーフに押し付けると、バーギアはロロさんに近づき、ぴょんぴょん跳ねながら話しました。リリーフは「本当に知り合いだったんだ」と心の中で呟きました。
「バーギア、リリーフさんに魚を押し付けたままで…困ってるじゃないですか」
「さっきオレたちが釣った魚だよぉ。でけぇだろぉ?」
「え…釣ったのは私じゃなくて…」
「夕飯にこれ使ってなんか作ってくれよ!」
リリーフはバーギアを訂正しようとしましたが、バーギアはひとりで突っ走っています。塩焼きにするか、ムニエルにするか、刺身にするか、なんて嬉しそうに提案しています。ロロさんが律儀に「煮付けがいいです」と返すと、バーギアは「煮付けだけはいやだ!」と大きな声で反論し始めました。騒がしいバーギアをよそに、ロロさんはドアの鍵を開けて玄関の扉を大きく開きました。
「リリーフさん、お疲れでしょう。中でハーブティーでも飲みましょう」
「あ、はい」
「無視するんじゃねーよぉー! 川魚は塩焼きに決まってんだろぉが! おい、聞いてんのかぁ!?」
ロロさんは静かに扉をくぐり、バーギアがぴょんぴょん跳ねて騒ぎながら追いかけます。リリーフも恐る恐る二人の後を追いかけて、ロロさんのステキなお家の中に入りました。
ーーーー夕食を終えて、3人は、ロロさんが入れたハーブティーを飲んでいました。
ロロさんはリリーフの話を聞くと「ほかに何かお薬など飲んでませんか?」と質問し、リリーフが何も服薬していないことを確認してから、ハーブティーを淹れてくれました。
「秋に入ると寒暖差と日照時間の低下で、気持ちが落ち込みやすくなるものですよ。そういう時には、セントジョンズワートがおすすめです」
ロロさんはそう言って、キレイなコップにハーブティーを淹れてくれました。セントジョンズワートは少し苦みを感じましたが、ロロさんが蜂蜜を入れてくれたおかげでとっても美味しく感じました。
一口含むだけで、リリーフの心は一気に光が灯ったように明るくなりました。
「サンシャインサプリメントとも呼ばれるんですよ。一気に気持ちが明るくなった気がしませんか?」
そう問いかけられてリリーフは笑って頷きました。ロロさんに会って、気分が紛れたのかもしれません。もしくはハーブを飲んで、なんとなく全部解決したと思えたのかもしれません。あるいは、ハーブの効果がしっかりとリリーフに効いているのでしょうか。リリーフは自分のことをちょっと単純だなぁ、と思いつつ曖昧に笑いました。
でも一つ確かなことは、バーギアと出会ってからの数時間、リリーフは全く申し訳なさや不甲斐なさを感じませんでした。もちろん孤独を感じる暇もないくらい、バーギアは自由奔放で、リリーフが落ち込む隙を与えませんでした。
バーギアはすっかりワインで出来上がり、テーブルの上で眠っています。そんなバーギアを見て、人様のお家でよくもまぁそんなに寛げるなぁと、呆れました。ロロさんは毛布をバーギアに掛けて「このコウモリはこのまま泊まっていく気なんですかねぇ」と困ったように囁きました。
そんな2人を眺めて、リリーフはあることに気がつきました。
ーーーああ、バーギアは全く誰かの期待に答えようなんてしていないんだわ。
普段ならきっと悔しく思うのでしょう。恨めしくも思うでしょう。けれども、そのときリリーフは「ふふっ」と小さな笑い声をこぼしました。納得して、むしろ面白く思えたのです。そして珍しく「自分もそんなふうに生きたいなぁ」と、軽やかな気持ちで思うことができました。
リリーフは陽気な気持ちで、バーギアが魚を釣り上げた瞬間のことを思い出しました。その瞬間の驚きと、興奮を思い出すと…本当に心に太陽が灯ったような気がしました。
その他のエピソード
Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。
文・絵 森野 きつね
第5話
秋の心の風邪
リリーフは落ち込んだ足取りで、森の小道を歩いていました。気分は最悪で、歩くたびに自分が存在していることが申し訳なく感じるほどです。真っ白な毛並みをすっかり伏せ、肩を落としながら進んでいきます。
近頃、何もうまくいきません。仕事も人間関係もすべてが上手くいかず、とうとうリリーフは本気で夜逃げしようかと考えるようになりました。人間関係も社会的な肩書も捨てて、誰も自分を知らない場所へ逃げたい…。そうする方が、このままならない日常を繰り返すよりもずっと慈悲的だと感じるほどに、リリーフは疲れ切っていました。
自分の不甲斐なさを感じるたびに、リリーフは家族にも、親戚にも、ひいてはご先祖様にも申し訳なく思ってしまいます。
申し訳なさと、疲れと、不甲斐なさ以上に、リリーフは孤独を感じていました。友人たちに、自分が仕事で犯した大きな失敗の話をしても、「そんなに気にしなくていいよ」「そこまで思いつめることじゃないよ」と言われます。彼女たちの言葉からは励ましを感じつつも、「そんなことで」と言われているような気がしてなりません。
「そんな程度のことで」
それは、リリーフ自身が自分に対して思っていることでした。こんなことで落ち込んでいるなんて、馬鹿馬鹿しい。そう思っているのに、気になって仕方がないのです。
「くだらないことばかり考えているのは、あなたが暇だからじゃない?」
いつものように、リリーフの鋭い内省の声があざ笑うように語りかけます。
「役立たずな上に、仕事もできなくて、おまけに性格も悪いなんて。そうみんな思ってるわ」
そうかもしれない。そうなのかもしれない。そう思うと、リリーフは友人や家族に相談することがどんどんできなくなっていきました。彼らの言葉の奥底に「そんなことで、そんなことも、それだけで」という気持ちを感じるたびに、リリーフはたじろいで、逃げ出したくなるのです。
ーーーそんなことを思うような人たちじゃないのに。
「うわっ!!きゃあ!」
ーーードテン!!
ぐるぐると考えながら歩いていると、リリーフはつま先を何かに引っ掛けてしまい、頭から倒れました。猫はどんな場所から落ちても足から着地できると言いますが、地面が近すぎて受け身を取ることすらできませんでした。
「いててて、なんだよぉ~せっかくいい夢を見てたってのに…」
リリーフの体の下から声がしました。リリーフは猫らしく軽やかに飛び上がり、全身の毛を逆立てました。リリーフの下敷きになっていたのは、なんとコウモリでした。コウモリは翼の先の小さな爪で頭を掻きながら、困ったような表情で驚き慄いて声も出せないリリーフを見ました。
「驚きすぎだろぉ、お嬢ちゃん」
「も、う、あ、ごめなさ、あぁ…えぇ…」
驚きすぎて、リリーフは怒るべきなのか、謝るべきなのかすらわかりません。
「謝んなくていいっての。オレが悪いんだからよぉ。ごめんよ、お嬢ちゃん」
よっこらしょーと言いながらコウモリは立ち上がりました。立ち上がってもコウモリは小さく、リリーフの肘あたりほどしかありません。そんなコウモリに怯えている自分が、リリーフはやっぱり情けなくなりました。
「どうしてこんなところで、寝ていたんですか…?」
「木に張り付いて寝てたんだが、落ちちまってよぉ。寝相が悪いんだオレは」
コウモリは頭上を指さし、大きな枝を示しました。そこから落ちてきたのだと。話を聞いて、リリーフは呆れかえり、コウモリに親を感じました。血を吸うだとか、恐ろしい声で鳴くだとか、そんな噂がコウモリには付きまとっていますが、リリーフの目の前にいるコウモリには、そんな恐ろしいことはできなさそうだと思ったのです。
「オレはバーギア。あんたは?」
「リリーフです」
「リリーフちゃん、なんたってこんな森の奥に?」
「…ロロさんに会いに来たんです。森の奥に住んでるフクロウの」
「おお!そうか!そりゃよかった!丁度オレもロロに会いに行くところだったんだ!」 「ええ?知り合いなんですか?」
「あたぼうよ!大親友さ!」
「こりゃあいい!」とバーギアは陽気な足取りで森の奥へ進みはじめました。
リリーフは半信半疑でバーギアの後を追います。落ち着いたロロさんと、ひょうきんなバーギアが大親友だなんて…。そもそも、リリーフには二人が並んでいる姿すら想像できません。それでもバーギアは森の奥へ、確信を持った足取りで進んでいきます。その道はまっすぐロロさんの家に続いているのでした。
・
・
「おいおいおい、なんだよあいつ……留守にしてやがる!」
「ちくしょーちくしょー!」とバーギアは家の前で地団駄を踏みました。
残念ながらロロさんは留守で、何度ノックしても現れません。その上、ドアには「留守中、そのうち戻ります」と丁寧な文字で書置きが張り付けられています。
リリーフはうなだれました。
ーーーまったくついてないわ…。
リリーフは少しため息をついて、俯きました。仕方ありません。いないなら帰るしかないのですから。踵を返して帰ろうとするリリーフに向け、バーギアは「おーい!」と声をかけました。
「どこ行くんだよ、リリーフちゃん」
「帰ろうと思って…」
「なんで!?」
心底わからないという顔で聞いてくるバーギアに、今度はリリーフが心底わからないという顔をしました。
「だって…いらっしゃらないし」
「だからなんだよ? 家なんだから、少ししたら帰ってくるだろぉ?」
当たり前だというような顔で言われ、リリーフは少しムッとしました。
「もしもすぐに帰ってこなかったらどうするんですか? 時間の無駄になっちゃいますよ」
「時間を無駄にするかどうかは、自分で決めるもんだろぉ。釣りでもやってりゃ、そのうち帰ってくるさぁ」
今度こそ、本当に意味が分からないという顔をして、バーギアは言いました。
ーーー時間を無駄にするかどうかは、自分で決めるもんだろぉ。
その言葉は、嫌な風にリリーフの胸に残りました。
リリーフは何度か断りましたし、それとなく嫌味も言いましたが、結局バーギアに押し切られる形で魚釣りをしていました。
小川の近くの丁度いい石の上で、リリーフとバーギアは小枝を垂らしています。
2人の釣り竿はバーギアが即席で作ったものです。材料は小枝と蜘蛛の糸、それからバーギアの持ってきていた壊れたヘアピンでした。こんな代物では、メダカすら釣れないだろうとリリーフは思っていました。
それでもバーギアは鼻歌を歌ったり、くだらない質問をリリーフにしたり、昔話をして楽しそうです。
「おめぇさん、なーんでそんなしけた面してんだよぉ」
「…ほっといてください」
「悩みなら聞いてやるからよぉ。年の功だけは積んでんだ」
いつもなら、自分なんかの愚痴を聞いてもらうのは忍びないと思って、言い出せないリリーフですが、その時は不思議と抵抗感を感じずに話すことができました。きっとバーギアがとんでもなくぶしつけで、土足でずかずかと心に入ってくるコウモリだからでしょう。バーギアをおもんぱかることすら、とんでもなくばかばかしく思えたのです。
それに、バーギアならどんなことを話しても、一度寝てしまえばすべてを忘れてくれる気がしました。
「なんにもうまくいかないんです。仕事も、恋愛も、友達関係だって。そろそろ私もいい年だし、もっと仕事を頑張りたいのに…。せっかく大きな仕事を任されても、私の不注意でみんなに迷惑をかけてしまうし。実はみんな、そんな私を見て呆れてるんじゃないかって…不安で」
まったく獲物がかからない釣竿を見つめて、リリーフはため息を吐き出しました。
「本当は、もうみんなに私のことを嫌いになってほしいんです。あんたなんか、くだんない!って言われたら、ひどい!ひどい!ってみんなのことを責めて、自分はなんてかわいそうなんだろうって思えるじゃないですか? 他のみんなをダメだ、ダメだって思う方が、自分はダメだダメだ、って思うよりも…ずっと楽だから」
それは久々にリリーフの口からこぼれた本心でした。最初こそは、思い悩む自分に対して「さすがに思い詰めすぎじゃない?」と笑うことができました。けれども、気が付けばリリーフは本気でそれを望んでいるのでした。
ーーーこんな自分を、もう見限ってほしい、嫌いになってほしい。
ーーーーーそうすれば、期待に応えようとする必要もないから。
大切にされている、期待されていると思うと、それに答えるために頑張りたいと思うのです。自分を励まして、支えてくれる存在がいれば、彼らのためにも頑張りたいという気持ちも強くなります。
ーーーーーでもうまくいかない。全部空回りしちゃう。
不甲斐なくて、情けなくて、消えてしまいたいとリリーフは思いました。頑張りたい、頑張っている、それなのにうまくいかない。成果が出せない。そんな自分を今もなお応援してくれているのだと思うと、それは励ましよりも脅迫に感じてしまいます。こんなバカな失敗をしている私を見て、まだ信じていられるの?そうやって他人の善意を捻じ曲げてしまう自分の意地悪な自分の心がーーーーリリーフは何よりも情けなく感じました。
「まぁまぁ、季節の変わり目ってのはよぉ、ナーバスになりやすいからよぉ」
「そんな簡単にまとめて…!もう…まじめに話した私がバカでした…」
バーギアの適当な言葉を聞いて、リリーフは投げやりな気持ちになりました。
「いいじゃねぇか!落ち込んだって、うまくいかなくたって。月ですら満ち欠けがあるんだからよぉ。オレたちが、ずっと満月でいられるわけがねぇだろう。それが、生き物の本分ってもんさ」
「私の場合…ずーーーっと調子が悪いっていうか…ずーーーーっと落ち込んでいるっていうか…」
「魚釣りだってなぁ、絶対に魚が釣れるとは限らねぇんだ。いや、むしろほとんど釣れないもんだ。そんな時でもな、楽しみかたがあるってもんさ。川に座って、竿を持っている時間がな、本当は一番大切なんだよ」
「どう大切なんですか?」
「そりゃあいろいろだ、いろいろ。生きてりゃそのうちわかる」
「…適当言ってるでしょ。バーギアさん」
リリーフは頬杖をついて、ぼんやりと水面を眺めました。空を見上げると太陽が少し傾いているのに気がつきました。風は森全体を撫であげて、木の葉は嬉しそうに音を立てて揺れました。
それから、どれぐらい時間が経ったのでしょう? 釣り竿にはなにもかかりません。それに、ロロさんの帰ってくる気配もありません。
リリーフは立ち上がり伸びをしました。お尻の痛みに気がついて、ポンポンと腰回りを叩き、バーギアを睨みました。
「やっぱり何も釣れないじゃないですか」
「あぁ?なにか釣れてほしかったのか??」
リリーフは目を見開いて唖然としました。
「釣りたいから、釣りをしていたんじゃないんですか?!」
「時間をつぶすためだっていっただろうぉが」
「時間が本当につぶれただけじゃないですか!帰っておけばよかった…」
うなだれたリリーフを見て、バーギアは笑います。
「お話が出来たじゃねぇーか!無駄じゃなかっただろぉ?」
リリーフが力一杯反論しようと口を開いたーーーその時です。
バーギアの釣り糸が強く引っ張られ、バーギアの体が宙に浮きました。咄嗟にリリーフはバーギアの首根っこをつかみ引き寄せました。そのおかげで、バーギアは川に落ちずに済みましたが、釣り竿はまだ川底へ引っ張られているようです。リリーフとバーギアは慌てて竿を引き寄せて、バーギアは唸り声を上げながら釣り竿を振り上げました…。
ーーーーそんなばかな…!
釣り糸の先に大きな魚がかかっているではありませんか!魚の姿を目に止めるとバーギアは、子どものように両足をばたつかせて喜びました。
「おや、お二人とも、何をしているんですか?」
2人は知り合いでしたっけ? と言いながらロロさんが帰ってきたのは、バーギアが魚を釣ったすぐあとでした。ロロさんは腕に麦わらを編み込んだバスケットを持っていました。バスケットには大量の薬草が入っていて、森のにおいがしました
「おお!!ロロ―! お前、何処に行ってたんだぁ? 待ってたんだぞぉ」
魚をリリーフに押し付けると、バーギアはロロさんに近づき、ぴょんぴょん跳ねながら話しました。リリーフは「本当に知り合いだったんだ」と心の中で呟きました。
「バーギア、リリーフさんに魚を押し付けたままで…困ってるじゃないですか」
「さっきオレたちが釣った魚だよぉ。でけぇだろぉ?」
「え…釣ったのは私じゃなくて…」
「夕飯にこれ使ってなんか作ってくれよ!」
リリーフはバーギアを訂正しようとしましたが、バーギアはひとりで突っ走っています。塩焼きにするか、ムニエルにするか、刺身にするか、なんて嬉しそうに提案しています。ロロさんが律儀に「煮付けがいいです」と返すと、バーギアは「煮付けだけはいやだ!」と大きな声で反論し始めました。騒がしいバーギアをよそに、ロロさんはドアの鍵を開けて玄関の扉を大きく開きました。
「リリーフさん、お疲れでしょう。中でハーブティーでも飲みましょう」
「あ、はい」
「無視するんじゃねーよぉー! 川魚は塩焼きに決まってんだろぉが! おい、聞いてんのかぁ!?」
ロロさんは静かに扉をくぐり、バーギアがぴょんぴょん跳ねて騒ぎながら追いかけます。リリーフも恐る恐る二人の後を追いかけて、ロロさんのステキなお家の中に入りました。
ーーーー夕食を終えて、3人は、ロロさんが入れたハーブティーを飲んでいました。
ロロさんはリリーフの話を聞くと「ほかに何かお薬など飲んでませんか?」と質問し、リリーフが何も服薬していないことを確認してから、ハーブティーを淹れてくれました。
「秋に入ると寒暖差と日照時間の低下で、気持ちが落ち込みやすくなるものですよ。そういう時には、セントジョンズワートがおすすめです」
ロロさんはそう言って、キレイなコップにハーブティーを淹れてくれました。セントジョンズワートは少し苦みを感じましたが、ロロさんが蜂蜜を入れてくれたおかげでとっても美味しく感じました。
一口含むだけで、リリーフの心は一気に光が灯ったように明るくなりました。
「サンシャインサプリメントとも呼ばれるんですよ。一気に気持ちが明るくなった気がしませんか?」
そう問いかけられてリリーフは笑って頷きました。ロロさんに会って、気分が紛れたのかもしれません。もしくはハーブを飲んで、なんとなく全部解決したと思えたのかもしれません。あるいは、ハーブの効果がしっかりとリリーフに効いているのでしょうか。リリーフは自分のことをちょっと単純だなぁ、と思いつつ曖昧に笑いました。
でも一つ確かなことは、バーギアと出会ってからの数時間、リリーフは全く申し訳なさや不甲斐なさを感じませんでした。もちろん孤独を感じる暇もないくらい、バーギアは自由奔放で、リリーフが落ち込む隙を与えませんでした。
バーギアはすっかりワインで出来上がり、テーブルの上で眠っています。そんなバーギアを見て、人様のお家でよくもまぁそんなに寛げるなぁと、呆れました。ロロさんは毛布をバーギアに掛けて「このコウモリはこのまま泊まっていく気なんですかねぇ」と困ったように囁きました。
そんな2人を眺めて、リリーフはあることに気がつきました。
ーーーああ、バーギアは全く誰かの期待に答えようなんてしていないんだわ。
普段ならきっと悔しく思うのでしょう。恨めしくも思うでしょう。けれども、そのときリリーフは「ふふっ」と小さな笑い声をこぼしました。納得して、むしろ面白く思えたのです。そして珍しく「自分もそんなふうに生きたいなぁ」と、軽やかな気持ちで思うことができました。
リリーフは陽気な気持ちで、バーギアが魚を釣り上げた瞬間のことを思い出しました。その瞬間の驚きと、興奮を思い出すと…本当に心に太陽が灯ったような気がしました。
その他のエピソード
Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。