第4話 思いやりを待つウサギ

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第4話

思いやりを待つウサギ

 育児放棄だと言われてしまうかもしれない。ニホンウサギのルースは、泣きそうになりながら思いました。

ーーーーけれども、もうどうにも力が入りません。

 道をゆく人々の視線が痛くて、ルースは消えてしまいたくなります。周囲の人の視線が気になって仕方ないルースとは違い、息子のコルベは大声で泣いています。歩き疲れたのです。最寄りのスーパーから自宅への距離は、猛暑ということもあって限界だったのでしょう。もう歩きたくない!と、彼は主張しましたが、ルースの両手には溢れんばかりの荷物があります。抱き上げるなんて到底無理だったのです。

 夏休みになり、幼稚園はお休みに入ってしまいました。ルースは息子と長時間一緒に過ごせることを喜んでいましたが、実際にその日がやってくると予想以上に体力を消耗することがわかりました。

ーーーーご飯を作って、片付けて、またご飯を作って…一体いつまで続くの?
 今までと生活は変わらない、そう自分に言い聞かせても、とてもそうとは思えませんでした。たった4時間でも、1人で過ごして仕事をかたずけることができる時間はルースの精神衛生上とても重要だったのです。子どもが嫌いなわけではない、もちろん愛しています。それでも、昼夜ひっつきまわり、大泣き、わがまま、食わず嫌いを発揮されてはルースは向かう先のない怒りと苛立ちを募らせてしまいます。

 コルべはもう4歳になりましたが、ルースがいないと不安で仕方ないようで、手がかかって仕方がありません。夫が帰ってくるまで、1人で途方も無い敵と戦っているような気がして時々息子を叩いてしまいそうになります。その度に、ルースは自分自身に幻滅しました。

 泣きわめくコルベを見つめて、ルースは思いました。とんでもなく暑いと。コルベもきっと暑くて仕方ないはずです。ーーーーふたりの額には大粒の汗が浮かんでいます。このままでは脱水症状になってしまいます。スーパーの袋の中にジュースはあったでしょうか?ルースはぼんやりと思いました。どうにかしないといけない。それはわかっていましたが、体調が悪くて頭がうまく働きません。思考に霧がかかったようで、思い通りに動かなかったのです。

「大丈夫ですか?」

 その時、第三者の声がしてルースはびくりと体を揺らしました。顔を向けると、そこには白い猫の女性が立っていました。彼女は手にペットボトルを持っていて、それをルースに差し出していました。何が起こっているのかわからず、ルースはただぼんやりと彼女を見つめていました。

「荷物、私が持ちますよ。そうすれば息子さんを抱えられますよね?」

にっこりと微笑まれてルースはやっと彼女がしていることを理解できました。あまりにも優しい扱いを受けて、涙が溢れました。

「すみません、大丈夫です。気にしないでください」

「でも…すみません。困っていらっしゃるように見えたから…、手伝わせてください」

ルースはドバドバと涙が頬を伝うのを感じました。女性は眉を八の字にさせてルースに近寄り、ルースの背中を撫でました。ありがたすぎてルースはしばらく顔を上げられませんでした。唐突に泣き始めた母親に驚いて泣いていたことも忘れてしまったのか、コルベが不安そうな顔で抱きついてきました。

「ママ、だいじょうぶ?いたいの?」

嗚咽が漏れて言葉が出せず、ルースはゆっくり首を振って、息子の涙で濡れた頬をスカートの裾で拭いました。

ーーーーそれが猫のリリーフとウサギのルースの出会いでした。


「ごめんください・・・」

 確信がなくて、ルースは遠慮がちにドアノッカーを叩き、小さな声を上げました。三角の屋根、大きな煙突。森に流れている流れの緩やかな川の真ん中にぽつんと取り残された小島の上に建つ素敵なお家。猫のリリーフの言ったとおりの風貌で、地図の通りにここまでやってきたわけですが、ルースは自信が持てません。そもそもこんな森の奥に家を構える人なんて、実在するのかしら?
 ノックをしても扉は開きません。ルースは長い耳を扉に近づけてみましたが、中からは物音ひとつしていません。

「ごめんください!」

今度はもう少し大きめの声とノック音で呼びかけました。すると中から少し物音がしました。ルースは大きな耳をピン!と、持ち上げてじっくりと中の音を聞いていました。ルースの頭の中にはたくさんの可能性が駆け巡り、ルースの心に不安を募らせました。

ーーーー中の人が倒れていたらどうしよう?
ーーーー室内でも熱中症になるひとがいるというし・・・失礼かもしれないけれど、無理にでも中に入った方がいいかもしれない。
ーーーーでもそれで訴えられたらどうしよう?
ーーーー紹介してくれたリリーフさんにも申し訳ないわ・・・。
ーーーー暑い、暑い、頭が重たい。
ーーーーこんなところに出会ったばかりの人に勧められてやってくるなんて、馬鹿みたい。
ーーーーきっと騙されたの。
ーーーーそんなはず・・・

 ルースの頭の中ではたくさんの想いが駆け巡っていました。息子のコルぺの時と同じように、ルースの頭の中ではまったく別の事柄がいつもぐるぐると駆け巡っているのです。危ない、危なく無い。大丈夫、大丈夫じゃ無い。どうしよう、どうしたら、どうにかして、どうとでも・・・。それぞれの思考は相反するばかりではなく、ルースの気持ちをより一層不安定にし、最終的にはルースに対処するべき問題がなんだったのかわからなくさせてしまうのでした。

 その時も、同じです。ルースは中のひとの安否を確認することと、勝手に室内に入ることの失礼さと、リリーフのことや、夏の暑さのことなどを一気に考えーーーー結局どうすればいいのかわからなくなって呆然としていました。

 ぼんやりと、ドアの前で立ち尽くしていると急に扉が開きました。


「おやおや、驚いた。こんな暑い日に来客がいるはずないと、幻聴だと思っていたのですが。本当にドアをノックしていた人がいたんですね」

 扉から顔を出したのは羽を乱した大きなワシミミズクのフクロウでした。フクロウの見た目がリリーフの説明した通りであるのを確認するとルースは安堵のため息を漏らしました。

「リリーフさんから紹介を受けて、参りました。私、ルースと申します。よかったらこちら、お受け取りください」

ルースは腕に抱えていたバスケットからワインのボトルを取り出し、フクロウに差し出しました。フクロウはボトルをしばし見つめてから、扉を大きく開いて言いました。

「私はワイズ・モンローです。ロロとお呼びください。さぁ、中へ。外は暑いでしょう」

招かれてルースはゆっくりと、警戒しつつロロさんの素敵なお家の中へ入りました。

 ルースがリリーフと出会ったのは偶然でした。ルースは夏の始まりから体調を崩していて、なかなか調子が戻らないまま子どもの幼稚園の夏休みが始まってしまったのです。ただでさえ体調悪いのに、一日中子どもと一緒に過ごすことになりーーーー認めたくはないもののーーーールースに限界が迫っていました。夫は夜帰ってきても子どもの世話を率先してしてはくれません。土日は家を空けることも多く、それが接待や趣味の時間ではなく、残業や仕事に必要な資格の勉強のためだとわかっている以上、手伝いをお願いすることは憚られました。結局、ルースは毎日体調が万全ではないなか、ことあるごとに「いやだ!」「いやいや!」と泣くコルベと1日を過ごすしかありません。

ーーーー一瞬シャワーを浴びたいから、外出するのはもう一時間あとにしてほしいの。
夫にそう何度も伝えようとしても、ルースはなかなかその思いを言葉にできません。ほんの1時間でもいい、1人の時間が欲しい。完全に1人になれなかったとしても、ほんの10分でもトイレの中で1人になりたいと思っていました。それでも子どものまとわりつきはキツく、トイレまで後を追ってきて、トイレの電気を付けたり消したりされることも。落ち着いて座ってご飯をしっかり摂る時間すらありませんでした。そういった行為はすべて幼稚園が休みになり、親と一緒にいられる時間が増えた子どもが甘えたくて行っていることなのだと、ルースも本や雑誌で学びましたが、それでも心に負の想いが募らないわけではありません。

 息子のコルベの行為よりも、ルースにとって耐え難かったのは、あんなに愛おしい息子に対して怒りを募らせている自分を認めることでした。
ーーーー一どうしてこんなこともできないの?
 その言葉はルースが幼い頃母親に何度も言われてきて、心に深い傷を残した言葉です。その言葉を、今自分が心の底から息子に対して感じている。そのことが、ルースには耐え難かったのでした。
ーーーー一私はお母さんよりも、いいお母さんになりたい。
 ルースがなりたいのは、いいお母さんだけではありません。ルースは良き伴侶でいたい。ルースは良い隣人になりたい。ルースは良い女性になりたい。ルースは・・・いい人でいたいのです。けれども、それは年を追うごとにどんどん難しくなっていきました。

ーーーー一体が重たい。
ーーーー一頭が重たい。
ーーーー一何も考えられない、ぼんやりする。

 夏の初めに体調を崩して以来、ルースの体の中には何か熱くて、不愉快なものが棲みついたように重たく火照ってしかたありません。冷房を入れてもそのまとわりつくような熱さはなくならず、手足が冷えていく一方です。頭は重たく、時々ルースの思考を完全に遮断してしまうほどでした。一度お医者さんにもいきましたが「夏バテですね」と言われて漢方をいくつか処方され、「クーラーをつけて、たくさんお水を飲むように」と助言を与えられた程度でした。漢方は味が好みでない上に、粉薬、忙しい育児の合間に一息ついて飲むこともできないまま戸棚の奥に放置されています。

 ルースが猫のリリーフと出会ったのは、そんな限界のタイミングでした。リリーフがスーパーの前で声をかけてくれて、お家まで荷物を運ぶのを手伝ってくれた時は天にも昇る心地でした。その上リリーフが感じの良い、とても優しい年下の女性であることを知るとすぐに夕飯に招きました。夫の帰りが遅いことを説明するとリリーフは快く夕飯を共にしてくれました。
 大人が2人いるとこんなにも楽なのねと、ルースは思いながら夕飯を久しぶりに落ち着いて座って楽しみました。リリーフがコルベに目配せをしてくれるおかげで、、ルースは食事中に何度も立って床に落ちた食べ物を拾いにいく必要がありません。それに、よく知らない人がいることが面白いのかコルベは終始ニコニコしているではありませんか。ルースは複雑な気持ちになりながら、その状況を甘んじて受け入れました。
 久しぶりにコルベ以外の生き物ーーーそれも大人の!ーーーと話したせいか、ルースはすっかり気が緩んで、出会ったばかりのリリーフに愚痴をこぼしていました。

「ここのところずっと体調が悪くて・・・病院に行ってもなんともない、熱もないし、血糖値も血圧も大丈夫だって言われちゃって。でも確かに疲れているし、体が妙に熱くて頭もうまく働かないのよ
ね」

「夏って、体調が悪くなりやすいですよね。室内と室外の寒暖差のせいもあると思うんですけど、なんだか湿気のせいでうまく熱を発散できないというか」

リリーフの柔らかい声で肯定されるとルースは安心しました。

「どうしたらいいのかしら・・・」

「ママ!ママ!」

「あらあら、はいはい。今日はよく食べるから。リリーフお姉ちゃんがいて、嬉しいのね」

 ルースがコルベに残りのご飯を食べさせる間、リリーフは顎に肉球を当てて少し考え込み、恐る恐るといった様子で話し始めました。

「あの、ルースさん。お医者さんではないんですが・・・ある人、森に住むふしぎな賢者を私知っていて・・・よかったら、コルベくんを1日預かりますからその方のところへ行ってみませんか?」

「ええ?」

 ルースは戸惑って思わずご飯をコルベの首掛けに落としてしまいました。それをみてコルベがわーん!と大声で泣くものですから、ルースとリリーフは慌てて片付けをしなくてはいけませんで
した。

ーーーそうしてルースはロロさんの家の前までやってきたのです。リリーフに息子を預けて。

「暑くてたまりません、こうも暑いと羽が邪魔で。今年こそ北へ逃げようかと思いました。いやはや、私は越冬は得意ですが、夏を越すのは苦手でして。私どものようなフクロウは夏場はもっと寒い地域へ移動するものですが、私はあまり飛行するのが好きではないので・・・」

 ロロさんに招かれて家の中に入るとロロさんはルースを適当なソファに座らせるとひっきりなしに喋り続けています。ロロさんは寡黙な人だとリリーフに聞いていたルースは面食らってロロさん
をただひたすら見守っていました。ロロさんはホコリ叩きで棚を掃き、ハーブの入った瓶を棚から下げたり戻したり、忙しなく動き回っています。

 そんなロロさんの手つきが危なっかしくてルースは突然立ち上がり言いました。

「あの!!わたし!!手伝います!!」

 ルースはロロさんの翼を掴んで、問答無用で今まで自分が座っていた席に座らせるとロロさんの掃除道具を奪ってしまいました。

 片付けて片付けて片付けて。
 洗い物をして、片付けて、また洗い物をして、洗濯物をして、片付けて。

 どこの家にいたって、どんな場所にいたって、きっと生き物の営みは変わりません。掃除洗濯、そしてご飯・・・。ご飯!
 そろそろ昼食の時間というタイミングでルースはやっと自分が人様の家の家事を勝手に手伝っていることに気がつき、顔を真っ青にさせました。

「ろ、ロロさん!!ロロさんすみません私!躍起になってしまって・・・」

「おや、ありがとうございます。すっかり家がきれいになって・・・ここ最近調子が悪くて、なかなかできなかったんですよ」

 ルースが慌てて物音のするキッチンへ飛び込むと、そこにはエプロンをしたロロさんが昼食を作っていました。簡単なサンドイッチとスープ、それに小ぶりのサラダが用意されているのを見てルースは驚きました。ロロさんは先ほどよりもずっと体調が良さそうです。なにより、言葉がしっかりしています。ーーー一体何があったんだろう?ルースは不思議に思いながらロロさんが引いた
椅子に腰を下ろし、たいして知らないロロさんと一緒に昼食をとることになりました。

「お疲れ様です。おかわりは自由ですから、いつでも言ってくださいね。飲み物は冷たいハーブティーでもいいですか?」

 ルースは席につくとしばらく目の前に広がる昼食を眺めていました。
ーーー誰かにもてなされたり世話をされるのは、久しぶりだわ。
 若い頃、ルースだって誰かに食事を奢ってもらったり、作ってもらったりすることがありました。実家に住んでいたころはいつも母親が学校帰りや仕事帰りのルースを迎え入れて「お疲れ様」と
いったものです。けれども、それはいまルースが誰かにしてあげるものであり、ルースがされるものではありません。そのことを思い出すとルースの目に涙が浮かびました。

ーーー私だってお疲れの時があるわ。ずっと家にいるだけじゃない。家にいて、生活に必要なことを回しているのは私なの。

 涙が流れないように目を瞬かせながら、ルースはゆっくりと自分のために用意されたご飯を食べました。お疲れ様、いつもがんばってるね、助かってるよ。そういう言葉が毎日聞きたい、自分の頑張りを毎日認めて欲しいというわけではありません。それでも、自分が母親として、妻として存在して、日々の暮らしに貢献していることはーーーわかって欲しいのです。笑顔で家族を迎え入れることも、毎日家をきれいにしていることも、毎日のご飯を作って用意することも、誰かが毎日考えて毎日おこなっていることなのだから。けれどもそんなことを声に出して家族へ向けることは、相手を脅迫しているように感じました。実際、ルースがそれらをきっぱりやめてしまったら生活は立ち行かないのだから。ルースにできることは、家族や周りが、ひいては社会が「自分の努力」にそれとなく気がついてくれることを期待するーーーそれだけしか残されていないように思えました。

 たまごサンドは、ルース好みの甘さと厚みでした。サラダのドレッシングもさっぱりとしていて、柑橘系のエキスが一口食べるごとに爽やかな気持ちにしてくれます。食事を楽しむルースを見て、
ロロさんは微笑んで問いかけました。

「今日はまたどうして私の元へよこされたんですか?」

「近頃、体調が悪くて。お医者さんへ行っても、問題はない、正常だ。夏バテ気味だから水を飲んで冷房をつけなさいとばかり言われて。どうしたらいいかわからなかったんです。そのことをリリー
フさんについ愚痴をこぼしてしまって」

「それで私ならお役に立てるだろうと、そういうことですかね。リリーフさんも勝手な猫ですよ」

「私がここに来れるように、息子の世話をしてくれていて・・・頭が上がりません。母親の私がちゃんとしなくちゃいけないのに」

 そうだった!!息子とリリーフさんを2人っきりにしている!そのことを思い出してルースはふと時計を見やりました。ロロさんの家についてからもう数時間は過ぎています。不安がよぎり、ルースの表情に不安がともりました。

「リリーフさんも大人ですから、きっと大丈夫ですよ。それよりルースさん、どうぞハーブティーを飲んでみてください。もしかしたら体の熱気に効くかもそれませんから」

 言われてルースは差し出された薄い赤色の液体が入ったカップを見遣りました。鼻を近づけて嗅いでみると、甘酸っぱい香りがします。ルースは一口飲んでみました。ハーブティーと言われていたのでルースは苦味や草っぽさを想定していましたが、口に含んだ飲み物には想定していたような味はまったくしません。柑橘を食べた時のような甘酸っぱさと花の香りが口いっぱいに広がりました。冷たいハーブティーはよく冷えていて、熱のこもった体を涼ませてくれました。

「おいしい・・・これがハーブティーなんて信じられません」


 目を丸くするルースにロロさんは微笑んで、小さな小ぶりの花を見せました。

「これはハイビスカスのコーディアルを炭酸水で割ったものです。コーディアルとはハーブやフルーツを生のまま砂糖などに漬け込んで凝縮させたシロップのことですよ。瓶にわけてあげるから、持って帰りなさいな。ハイビスカスは湿気による火照りに効くと言われていますから、ルースさんの症状を和らげるのに効くかもしれません」

「ほんとうですか?水で割って飲むだけなら、育児の合間でもできそうです・・・!」

「ハイビスカスは疲労回復にも良く、暑気冷ましとして、よく使われるものです。湿気が多いとうまく汗を蒸発させられなくなり、それが理由で体に熱がこもりやすくなるんですよ」

「今年の夏は確かに湿気がすごいですよね・・・」

「まぁそれよりも、ルースさんに必要なのは憂鬱な気持ちを和らげるという効力のほうだと私は思っています」

 言われてルースはきょとんとしてロロさんを見返しました。

「憂鬱・・・ですか?憂鬱に見えますか?」

「陰気に見えるというわけではないですよ」

 ロロさんは丁寧にハイビスカスの花をテーブルに置いてから、穏やかに続けました。

「母親だからちゃんとしなくちゃいけないと、言い聞かせ続けていたら落ち込んでしまうと思ったんです」

ーーー母親の私がちゃんとしなくちゃいけないのに。
 ルースはハッとして自分の口に肉球を当てました。その言葉は、何度も何度も自分に言い聞かせていることでした。

「ちゃんとできなくても、いいじゃないですか。何もできていなくても、いいじゃないですか。だって、お子さんにはそう思いますよね?」

「はい、子どもにはーーー子どもたちにはそう思います」

「その言葉、自分自身にも伝えてあげてくださいね」

 言いながらロロさんは、ハイビスカスの花がくくりつけられた瓶をルースに差し出しました。ありがとうございます、部屋の掃除を手伝ってくださって、という言葉をかけられて、ルースの目からぽろりと涙がこぼれました。思いやりは、自分に対しても必要なのだと思い知りながら。

Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。

第4話

思いやりを待つウサギ

 育児放棄だと言われてしまうかもしれない。ニホンウサギのルースは、泣きそうになりながら思いました。

ーーーーけれども、もうどうにも力が入りません。

 道をゆく人々の視線が痛くて、ルースは消えてしまいたくなります。周囲の人の視線が気になって仕方ないルースとは違い、息子のコルベは大声で泣いています。歩き疲れたのです。最寄りのスーパーから自宅への距離は、猛暑ということもあって限界だったのでしょう。もう歩きたくない!と、彼は主張しましたが、ルースの両手には溢れんばかりの荷物があります。抱き上げるなんて到底無理だったのです。

 夏休みになり、幼稚園はお休みに入ってしまいました。ルースは息子と長時間一緒に過ごせることを喜んでいましたが、実際にその日がやってくると予想以上に体力を消耗することがわかりました。

ーーーーご飯を作って、片付けて、またご飯を作って…一体いつまで続くの?
今までと生活は変わらない、そう自分に言い聞かせても、とてもそうとは思えませんでした。たった4時間でも、1人で過ごして仕事をかたずけることができる時間はルースの精神衛生上とても重要だったのです。子どもが嫌いなわけではない、もちろん愛しています。それでも、昼夜ひっつきまわり、大泣き、わがまま、食わず嫌いを発揮されてはルースは向かう先のない怒りと苛立ちを募らせてしまいます。

 コルべはもう4歳になりましたが、ルースがいないと不安で仕方ないようで、手がかかって仕方がありません。夫が帰ってくるまで、1人で途方も無い敵と戦っているような気がして時々息子を叩いてしまいそうになります。その度に、ルースは自分自身に幻滅しました。

 泣きわめくコルベを見つめて、ルースは思いました。とんでもなく暑いと。コルベもきっと暑くて仕方ないはずです。ーーーーふたりの額には大粒の汗が浮かんでいます。このままでは脱水症状になってしまいます。スーパーの袋の中にジュースはあったでしょうか?ルースはぼんやりと思いました。どうにかしないといけない。それはわかっていましたが、体調が悪くて頭がうまく働きません。思考に霧がかかったようで、思い通りに動かなかったのです。

「大丈夫ですか?」

 その時、第三者の声がしてルースはびくりと体を揺らしました。顔を向けると、そこには白い猫の女性が立っていました。彼女は手にペットボトルを持っていて、それをルースに差し出していました。何が起こっているのかわからず、ルースはただぼんやりと彼女を見つめていました。

「荷物、私が持ちますよ。そうすれば息子さんを抱えられますよね?」

にっこりと微笑まれてルースはやっと彼女がしていることを理解できました。あまりにも優しい扱いを受けて、涙が溢れました。

「すみません、大丈夫です。気にしないでください」

「でも…すみません。困っていらっしゃるように見えたから…、手伝わせてください」

ルースはドバドバと涙が頬を伝うのを感じました。女性は眉を八の字にさせてルースに近寄り、ルースの背中を撫でました。ありがたすぎてルースはしばらく顔を上げられませんでした。唐突に泣き始めた母親に驚いて泣いていたことも忘れてしまったのか、コルベが不安そうな顔で抱きついてきました。

「ママ、だいじょうぶ?いたいの?」

嗚咽が漏れて言葉が出せず、ルースはゆっくり首を振って、息子の涙で濡れた頬をスカートの裾で拭いました。

ーーーーそれが猫のリリーフとウサギのルースの出会いでした。

「ごめんください・・・」

 確信がなくて、ルースは遠慮がちにドアノッカーを叩き、小さな声を上げました。三角の屋根、大きな煙突。森に流れている流れの緩やかな川の真ん中にぽつんと取り残された小島の上に建つ素敵なお家。猫のリリーフの言ったとおりの風貌で、地図の通りにここまでやってきたわけですが、ルースは自信が持てません。そもそもこんな森の奥に家を構える人なんて、実在するのかしら?

ノックをしても扉は開きません。ルースは長い耳を扉に近づけてみましたが、中からは物音ひとつしていません。

「ごめんください!」

今度はもう少し大きめの声とノック音で呼びかけました。すると中から少し物音がしました。ルースは大きな耳をピン!と、持ち上げてじっくりと中の音を聞いていました。ルースの頭の中にはたくさんの可能性が駆け巡り、ルースの心に不安を募らせました。

ーーーー中の人が倒れていたらどうしよう?
ーーーー室内でも熱中症になるひとがいるというし・・・失礼かもしれないけれど、無理にでも中に入った方がいいかもしれない。
ーーーーでもそれで訴えられたらどうしよう?
ーーーー紹介してくれたリリーフさんにも申し訳ないわ・・・。
ーーーー暑い、暑い、頭が重たい。
ーーーーこんなところに出会ったばかりの人に勧められてやってくるなんて、馬鹿みたい。
ーーーーきっと騙されたの。
ーーーーそんなはず・・・

 ルースの頭の中ではたくさんの想いが駆け巡っていました。息子のコルぺの時と同じように、ルースの頭の中ではまったく別の事柄がいつもぐるぐると駆け巡っているのです。危ない、危なく無い。大丈夫、大丈夫じゃ無い。どうしよう、どうしたら、どうにかして、どうとでも・・・。それぞれの思考は相反するばかりではなく、ルースの気持ちをより一層不安定にし、最終的にはルースに対処するべき問題がなんだったのかわからなくさせてしまうのでした。

その時も、同じです。ルースは中のひとの安否を確認することと、勝手に室内に入ることの失礼さと、リリーフのことや、夏の暑さのことなどを一気に考えーーーー結局どうすればいいのかわから
なくなって呆然としていました。

ぼんやりと、ドアの前で立ち尽くしていると急に扉が開きました。

「おやおや、驚いた。こんな暑い日に来客がいるはずないと、幻聴だと思っていたのですが。本当にドアをノックしていた人がいたんですね」

 扉から顔を出したのは羽を乱した大きなワシミミズクのフクロウでした。フクロウの見た目がリリーフの説明した通りであるのを確認するとルースは安堵のため息を漏らしました。

「リリーフさんから紹介を受けて、参りました。私、ルースと申します。よかったらこちら、お受け取りください」

ルースは腕に抱えていたバスケットからワインのボトルを取り出し、フクロウに差し出しました。フクロウはボトルをしばし見つめてから、扉を大きく開いて言いました。

「私はワイズ・モンローです。ロロとお呼びください。さぁ、中へ。外は暑いでしょう」

招かれてルースはゆっくりと、警戒しつつロロさんの素敵なお家の中へ入りました。

 ルースがリリーフと出会ったのは偶然でした。ルースは夏の始まりから体調を崩していて、なかなか調子が戻らないまま子どもの幼稚園の夏休みが始まってしまったのです。ただでさえ体調悪いのに、一日中子どもと一緒に過ごすことになりーーーー認めたくはないもののーーーールースに限界が迫っていました。夫は夜帰ってきても子どもの世話を率先してしてはくれません。土日は家を空けることも多く、それが接待や趣味の時間ではなく、残業や仕事に必要な資格の勉強のためだとわかっている以上、手伝いをお願いすることは憚られました。結局、ルースは毎日体調が万全ではないなか、ことあるごとに「いやだ!」「いやいや!」と泣くコルベと1日を過ごすしかありません。
ーーーー一瞬シャワーを浴びたいから、外出するのはもう一時間あとにしてほしいの。
夫にそう何度も伝えようとしても、ルースはなかなかその思いを言葉にできません。ほんの1時間でもいい、1人の時間が欲しい。完全に1人になれなかったとしても、ほんの10分でもトイレの中で1人になりたいと思っていました。それでも子どものまとわりつきはキツく、トイレまで後を追ってきて、トイレの電気を付けたり消したりされることも。落ち着いて座ってご飯をしっかり摂る時間すらありませんでした。そういった行為はすべて幼稚園が休みになり、親と一緒にいられる時間が増えた子どもが甘えたくて行っていることなのだと、ルースも本や雑誌で学びましたが、それでも心に負の想いが募らないわけではありません。

 息子のコルベの行為よりも、ルースにとって耐え難かったのは、あんなに愛おしい息子に対して怒りを募らせている自分を認めることでした。
ーーーー一どうしてこんなこともできないの?
その言葉はルースが幼い頃母親に何度も言われてきて、心に深い傷を残した言葉です。その言葉を、今自分が心の底から息子に対して感じている。そのことが、ルースには耐え難かったのでした。
ーーーー一私はお母さんよりも、いいお母さんになりたい。
ルースがなりたいのは、いいお母さんだけではありません。ルースは良き伴侶でいたい。ルースは良い隣人になりたい。ルースは良い女性になりたい。ルースは・・・いい人でいたいのです。けれども、それは年を追うごとにどんどん難しくなっていきました。

ーーーー一体が重たい。
ーーーー一頭が重たい。
ーーーー一何も考えられない、ぼんやりする。

 夏の初めに体調を崩して以来、ルースの体の中には何か熱くて、不愉快なものが棲みついたように重たく火照ってしかたありません。冷房を入れてもそのまとわりつくような熱さはなくならず、手足が冷えていく一方です。頭は重たく、時々ルースの思考を完全に遮断してしまうほどでした。一度お医者さんにもいきましたが「夏バテですね」と言われて漢方をいくつか処方され、「クーラーをつけて、たくさんお水を飲むように」と助言を与えられた程度でした。漢方は味が好みでない上に、粉薬、忙しい育児の合間に一息ついて飲むこともできないまま戸棚の奥に放置されています。

 ルースが猫のリリーフと出会ったのは、そんな限界のタイミングでした。リリーフがスーパーの前で声をかけてくれて、お家まで荷物を運ぶのを手伝ってくれた時は天にも昇る心地でした。その上リリーフが感じの良い、とても優しい年下の女性であることを知るとすぐに夕飯に招きました。夫の帰りが遅いことを説明するとリリーフは快く夕飯を共にしてくれました。

大人が2人いるとこんなにも楽なのねと、ルースは思いながら夕飯を久しぶりに落ち着いて座って楽しみました。リリーフがコルベに目配せをしてくれるおかげで、ルースは食事中に何度も立って床に落ちた食べ物を拾いにいく必要がありません。それに、よく知らない人がいることが面白いのかコルベは終始ニコニコしているではありませんか。ルースは複雑な気持ちになりながら、その状況を甘んじて受け入れました。

 久しぶりにコルベ以外の生き物ーーーそれも大人の!ーーーと話したせいか、ルースはすっかり気が緩んで、出会ったばかりのリリーフに愚痴をこぼしていました。

「ここのところずっと体調が悪くて・・・病院に行ってもなんともない、熱もないし、血糖値も血圧も大丈夫だって言われちゃって。でも確かに疲れているし、体が妙に熱くて頭もうまく働かないのよね」

「夏って、体調が悪くなりやすいですよね。室内と室外の寒暖差のせいもあると思うんですけど、なんだか湿気のせいでうまく熱を発散できないというか」

リリーフの柔らかい声で肯定されるとルースは安心しました。

「どうしたらいいのかしら・・・」
「ママ!ママ!」
「あらあら、はいはい。今日はよく食べるから。リリーフお姉ちゃんがいて、嬉しいのね」

ルースがコルベに残りのご飯を食べさせる間、リリーフは顎に肉球を当てて少し考え込み、恐る恐るといった様子で話し始めました。

「あの、ルースさん。お医者さんではないんですが・・・ある人、森に住むふしぎな賢者を私知っていて・・・よかったら、コルベくんを1日預かりますからその方のところへ行ってみませんか?」

「ええ?」

ルースは戸惑って思わずご飯をコルベの首掛けに落としてしまいました。それをみてコルベがわーん!と大声で泣くものですから、ルースとリリーフは慌てて片付けをしなくてはいけませんでした。


ーーーそうしてルースはロロさんの家の前までやってきたのです。リリーフに息子を預けて。

「暑くてたまりません、こうも暑いと羽が邪魔で。今年こそ北へ逃げようかと思いました。いやはや、私は越冬は得意ですが、夏を越すのは苦手でして。私どものようなフクロウは夏場はもっと寒い地域へ移動するものですが、私はあまり飛行するのが好きではないので・・・」

ロロさんに招かれて家の中に入るとロロさんはルースを適当なソファに座らせるとひっきりなしに喋り続けています。ロロさんは寡黙な人だとリリーフに聞いていたルースは面食らってロロさん
をただひたすら見守っていました。ロロさんはホコリ叩きで棚を掃き、ハーブの入った瓶を棚から下げたり戻したり、忙しなく動き回っています。

そんなロロさんの手つきが危なっかしくてルースは突然立ち上がり言いました。

「あの!!わたし!!手伝います!!」

ルースはロロさんの翼を掴んで、問答無用で今まで自分が座っていた席に座らせるとロロさんの掃除道具を奪ってしまいました。

 片付けて片付けて片付けて。
 洗い物をして、片付けて、また洗い物をして、洗濯物をして、片付けて。

どこの家にいたって、どんな場所にいたって、きっと生き物の営みは変わりません。掃除洗濯、そしてご飯・・・。ご飯!

 そろそろ昼食の時間というタイミングでルースはやっと自分が人様の家の家事を勝手に手伝っていることに気がつき、顔を真っ青にさせました。

「ろ、ロロさん!!ロロさんすみません私!躍起になってしまって・・・」

「おや、ありがとうございます。すっかり家がきれいになって・・・ここ最近調子が悪くて、なかなかできなかったんですよ」

ルースが慌てて物音のするキッチンへ飛び込むと、そこにはエプロンをしたロロさんが昼食を作っていました。簡単なサンドイッチとスープ、それに小ぶりのサラダが用意されているのを見てルースは驚きました。ロロさんは先ほどよりもずっと体調が良さそうです。なにより、言葉がしっかりしています。ーーー一体何があったんだろう?ルースは不思議に思いながらロロさんが引いた
椅子に腰を下ろし、たいして知らないロロさんと一緒に昼食をとることになりました。

「お疲れ様です。おかわりは自由ですから、いつでも言ってくださいね。飲み物は冷たいハーブティーでもいいですか?」

ルースは席につくとしばらく目の前に広がる昼食を眺めていました。
ーーー誰かにもてなされたり世話をされるのは、久しぶりだわ。

 若い頃、ルースだって誰かに食事を奢ってもらったり、作ってもらったりすることがありました。実家に住んでいたころはいつも母親が学校帰りや仕事帰りのルースを迎え入れて「お疲れ様」と言ったものです。けれども、それはいまルースが誰かにしてあげるものであり、ルースがされるものではありません。そのことを思い出すとルースの目に涙が浮かびました。

ーーー私だってお疲れの時があるわ。ずっと家にいるだけじゃない。家にいて、生活に必要なことを回しているのは私なの。

 涙が流れないように目を瞬かせながら、ルースはゆっくりと自分のために用意されたご飯を食べました。お疲れ様、いつもがんばってるね、助かってるよ。そういう言葉が毎日聞きたい、自分の頑張りを毎日認めて欲しいというわけではありません。それでも、自分が母親として、妻として存在して、日々の暮らしに貢献していることはーーーわかって欲しいのです。笑顔で家族を迎え入れることも、毎日家をきれいにしていることも、毎日のご飯を作って用意することも、誰かが毎日考えて毎日おこなっていることなのだから。けれどもそんなことを声に出して家族へ向けることは、相手を脅迫しているように感じました。実際、ルースがそれらをきっぱりやめてしまったら生活は立ち行かないのだから。ルースにできることは、家族や周りが、ひいては社会が「自分の努力」にそれとなく気がついてくれることを期待するーーーそれだけしか残されていないように思えました。

 たまごサンドは、ルース好みの甘さと厚みでした。サラダのドレッシングもさっぱりとしていて、柑橘系のエキスが一口食べるごとに爽やかな気持ちにしてくれます。食事を楽しむルースを見て、ロロさんは微笑んで問いかけました。

「今日はまたどうして私の元へよこされたんですか?」

「近頃、体調が悪くて。お医者さんへ行っても、問題はない、正常だ。夏バテ気味だから水を飲んで冷房をつけなさいとばかり言われて。どうしたらいいかわからなかったんです。そのことをリリーフさんについ愚痴をこぼしてしまって」

「それで私ならお役に立てるだろうと、そういうことですかね。リリーフさんも勝手な猫ですよ」

「私がここに来れるように、息子の世話をしてくれていて・・・頭が上がりません。母親の私がちゃんとしなくちゃいけないのに」

そうだった!!息子とリリーフさんを2人っきりにしている!そのことを思い出してルースはふと時計を見やりました。ロロさんの家についてからもう数時間は過ぎています。不安がよぎり、ルースの表情に不安がともりました。

「リリーフさんも大人ですから、きっと大丈夫ですよ。それよりルースさん、どうぞハーブティーを飲んでみてください。もしかしたら体の熱気に効くかもそれませんから」

言われてルースは差し出された薄い赤色の液体が入ったカップを見遣りました。鼻を近づけて嗅いでみると、甘酸っぱい香りがします。ルースは一口飲んでみました。ハーブティーと言われてい
たのでルースは苦味や草っぽさを想定していましたが、口に含んだ飲み物には想定していたような味はまったくしません。柑橘を食べた時のような甘酸っぱさと花の香りが口いっぱいに広がりました。冷たいハーブティーはよく冷えていて、熱のこもった体を涼ませてくれました。

「おいしい・・・これがハーブティーなんて信じられません」

 目を丸くするルースにロロさんは微笑んで、小さな小ぶりの花を見せました。

「これはハイビスカスのコーディアルを炭酸水で割ったものです。コーディアルとはハーブやフルーツを生のまま砂糖などに漬け込んで凝縮させたシロップのことですよ。瓶にわけてあげるから、持って帰りなさいな。ハイビスカスは湿気による火照りに効くと言われていますから、ルースさんの症状を和らげるのに効くかもしれません」

「ほんとうですか?水で割って飲むだけなら、育児の合間でもできそうです・・・!」

「ハイビスカスは疲労回復にも良く、暑気冷ましとして、よく使われるものです。湿気が多いとうまく汗を蒸発させられなくなり、それが理由で体に熱がこもりやすくなるんですよ」

「今年の夏は確かに湿気がすごいですよね・・・」

「まぁそれよりも、ルースさんに必要なのは憂鬱な気持ちを和らげるという効力のほうだと私は思っています」

言われてルースはきょとんとしてロロさんを見返しました。

「憂鬱・・・ですか?憂鬱に見えますか?」

「陰気に見えるというわけではないですよ」

ロロさんは丁寧にハイビスカスの花をテーブルに置いてから、穏やかに続けました。

「母親だからちゃんとしなくちゃいけないと、言い聞かせ続けていたら落ち込んでしまうと思ったんです」

ーーー母親の私がちゃんとしなくちゃいけないのに。
ルースはハッとして自分の口に肉球を当てました。その言葉は、何度も何度も自分に言い聞かせていることでした。

「ちゃんとできなくても、いいじゃないですか。何もできていなくても、いいじゃないですか。だって、お子さんにはそう思いますよね?」

「はい、子どもにはーーー子どもたちにはそう思います」

「その言葉、自分自身にも伝えてあげてくださいね」

言いながらロロさんは、ハイビスカスの花がくくりつけられた瓶をルースに差し出しました。ありがとうございます、部屋の掃除を手伝ってくださって、という言葉をかけられて、ルースの目からぽろりと涙がこぼれました。思いやりは、自分に対しても必要なのだと思い知りながら。

Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。

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