文・絵 森野 きつね
第1話
迷い鳥の森の賢者
白い毛並みのネコのリリーフは、スカートの裾に絡まった何かの枝を申し訳なさそうな手つきで振り払い、自信のない足取りで先へ進みます。
自分が進んでいる方角が正しいかどうかは、まったく自信がありませんでした。リリーフは肩を落としてとにかく歩きました。
本当ならもう暖かい自分の家について、ベッドの中でメソメソ泣いて、深夜まで意地悪な自分の心の声を子守歌に眠りに落ちるはずでした。…そう思うと、いま深い森のなかで迷子になっているのは家に帰ってメソメソするよりもうんとマシにも思えます
ーーーーガサガサ!
リリーフのすぐ背後で物音がしました。
大きな何かが無理やり木々の間を通ったような、あるいは小さな何かが茂みに飛び込んだような、そんな音でした。その音を聞いたとき、リリーフは叫びすらしませんでした。正確には叫ぼうとしましたが、まったく声が出なかったのです。
ちょうどその時、家に帰るよりも森で迷子になることはマシだと思う少しばかり後ろ向きの楽観的な考えは、その場に勇気と共にぼとぼとと落ちてしまいました。今のリリーフの手元に残っているもので、リリーフを前へ進ませるのは「とにかく歩かなければどこにもたどり着かない」というもうここ数時間何度も自分に言い聞かせた言葉だけです。
声も出ないほど固まって動けなくなっていたリリーフですが、ゆっくりと歩み始めました。とにかく歩いてこの深い森から抜け出したいのです。
ーーーーよりにもよって迷い鳥の森(フレアローレンの森)で迷子になるなんて。
光一つない鬱蒼とした森は青白い月の光を浴びて濃い影をいくつも地面に伸ばしています。その影一つ一つに恐ろしい伝承の生き物がいても不思議ではありません。
どんな森にも不名誉で迷信深い言い伝えがあるものです。もちろん、迷い鳥の森もその例に漏れず、恐ろしい言い伝えが残っています。動物たちは基本的に自由気ままで、住み家をやたらめったら変えることを好むのは今や歩き始めたばかりの子羊ですら知っていることです。しかし、時々偉大な自然の気まぐれな手によって思いも寄らない場所へ連れてこられてしまうことがあります。そういった人たちの多くはこの迷い鳥の森に辿り着くのだとまことしやかに囁かれていました。迷信深いリリーフのおばあちゃんは決まってこう言いました。
「あの森が動物の目には見えない何か大きな手を伸ばしてなんの罪もない動物たちを捕まえて、引き寄せているんだ。あの森は生きている!森の格好をした魔物なのさ!大きな口をあけて、哀れな動物たちを・・・待っている!」
リリーフはキジ猫のおばあちゃんの不思議なべっこう色の目がカッ!と見開かれるたびに息を潜めてシーツを抱きしめました。ヒッ!と大変情けない声をあげながら。おばあちゃんはいつも「だからいい子にしなければあの森に引き寄せられてしまうよ」と締めくくりました。大人になったリリーフはそれが子ども騙しだということはわかっていましたが、今こうして森に迷い込んでいるところを鑑みると、おばあちゃんはずーっと正しかったのかもしれないと思わざるを得ません。
ほとほと歩き疲れて、森の道中に希望も、夢も、自信を含めたあらゆる感情を落っことして求愛に失敗した孔雀のようにトボトボ歩いていたリリーフの鼻がとても良い香りを捕まえました。リリーフはあらゆる自分の感覚や感情に自信がない猫でしたが、それでも嗅覚はどうしたって良いのです。都会に住む猫のリリーフにとってそれは多くの場合嫌な匂いを強く感じるだけの役に立たない能力でしたが、ここに来てその能力がリリーフを救ったようです。
「いい匂いがする…なんだろうこの匂い。お花…?」
あらゆるものを道端に落っことしたはずでしたが、どうやら好奇心だけは残っていたようです。リリーフは珍しく猫らしく匂いの元を探して進みました。
「あれ…何だろうこの光」
しばらく歩いていると真っ暗なはずの森の奥に何やら光が見えました。リリーフの白い毛並みを月明かりの青白い光ではなく、暖かい橙色の光が照らしました。
その光を発しているのはこじんまりとした、けれども森の中にあるとは思えないような素敵なお家なのでした。といっても、光はその素敵なお家の窓から細やかに漏れた室内の光のようです。中で暖炉が灯っているのか、しっかりとした煙突から煙が立ち上り夜空に色を加えていました。そのお家は大きな屋根があり、ほとんど木々や苔と共存しているようなそんな見た目をしています。あと40年もしたらすっかり森と同化してしまいそうなほどです。家の周りには穏やかな小川が流れているようでその水音はリリーフの耳をくすぐりました。小川に囲まれるようにしてポツンと残った小島のような陸地にその家は建っています。いまは暗くてあまりはっきりとそのお家の容貌がわかりませんが、きっと昼間に見たらおとぎ話の挿絵に入っているような素敵なお家に違いありません。
「…あのお家の人に道を聞いてみよう!」
久しぶりに見た暖かい光にリリーフは勇気がみなぎってくるようでした。普段なら絶対に知らない人のお家を訪ねたりはしませんが、その家にはすべてを受け入れてくれそうな感じがしたのです。リリーフはお家が建っている小島に続く小さな陸地や明らかに手作りの短い木製の橋を渡ってお家の前まで辿りつきました。扉のそばには小さな可愛らしい三角屋根のポストと「ワイズ・モンロー」と書かれた表札が出ています、そうして気がつけばあっという間に扉の目の前に立っていました。重厚なオークの木で作られたドアには菱形の小窓が付いています。ドアノッカーは何かの植物がモチーフになっているような美しい装飾がほどこされています。リリーフは恐る恐る、けれども中の住人にしっかりと聞こえるよう、ドアノッカーを3度叩きました。
「ごめんください!お願いします。迷子になってしまったんです、道を教えてもらえませんか?」
「驚いたこんな遅くに尋人がくるなんて」と穏やかな声で呟きつつオークの扉を開いたのはフクロウでした。リリーフはドッキリして、飛び跳ねました。
フクロウはこの地域ではたいへん珍しく、滅多にお目にかかれないからです。
「遅くに申し訳ありません。…道に迷ってしまって。ノイの街への道を教えてもらえませんか?」
「迷子なんて、難儀ですね。いま地図を書いてあげますから、家の中で少し落ち着いて行ってはどうですか?ちょうど、ハーブティーを淹れたところです」
え?ハーブティー?とリリーフは思いました。それに家の中に入っていいと言われたことにもリリーフは驚きました。まず自分なら夜遅くに訪ねてきた人をそうやすやすと招き入れたりしません。だからこそ、なんということでもないというふうにそのフクロウが家に招いたことには驚いてうまく返事ができなかったのです。そんなリリーフのことなどつゆ知らず、フクロウは扉を大きく開けると、スッとリリーフに背を向けて家の奥へ入って行ってしまいました。
慌ててリリーフはフクロウを追いかけました。
「ありがとうございます。歩き疲れてしまっていたので、とても助かります」
「そうでしょうとも。ノイの街からここにくるには一時間以上歩かなければなりませんから」
その言葉を聞いてリリーフはゾッとしました。まずそんなに長い時間彷徨っていたことにゾッとして、その上これから一時間以上歩かなければいけないことにもゾッとしました。
「さぁ、帰りの道もありますからね。ここで存分休んでおいきなさい。そこのソファをどうぞ。暖炉の火にあたって。いまハーブティーを持ってきます」
言われるがままにリリーフは勧められた一人がけのソファに座りました。そのソファは決して新品ではなく、ところどころに使い込まれた跡があり、薄いサーモンピンク色に色褪せて、そのうえ座り手を待ち構えるように窪んでいる代物でした。けれども一度リリーフが腰掛けると立ち上がるのが大変難しいと思えるほどしっとりとリリーフを受け止めてくれました。その時初めてリリーフは全身がカチカチに固まって緊張し、疲れ切っていたことに気がつきました。
「ほら、どうぞ、カモミールティーですよ」
リリーフが暖炉の火を眺めながらぼんやりとしているとフクロウが戻ってきました。ぼーっとしていたリリーフはそこで思い出したように居住まいを正し、フクロウからマグカップを受け取りました。
「ありがとうございます。あの…あなたのお名前をお伺いしてもいいですか?あ、私は、リリーフと言います」
「ワイズ・モンローです。友人にはロロと呼ばれているので、ロロと呼んでくださいな」
少し照れくさい気持ちになりながらリリーフは「ロロさん」と呟きました。名前を呼ばれたロロさんはまんまるな瞳をくしゃりと歪ませてほほえみました。その微笑みを見ているとリリーフは不思議と安心するのでした。
リリーフは両手で抱えたマグカップに注がれたカモミールティーを見下ろしました。暖かい湯気がリリーフの顔に当たり、髭をくすぐります。暖炉の火を浴びてカモミールティーは蜂蜜のように優しい色をしているように思えました。立ち上る湯気を吸い込むたびに胸がぼんやりと暖かく感じられ、花の香りがリリーフの小ぶりの鼻をくすぐりました。深く息を吸うたびにリリーフの胸いっぱいにカモミールの優しい香りが広がっていきました。まるで太陽の下でのんびりと過ごしているような、耳を済ませれば優しくそよぐ木々の音色も聞こえてきそうです。気が付かないうちに目をつぶってじっくりハーブティーの湯気に当たっていたようです。もくもくと立ち上っていた湯気は次第に緩やかな小川のようになっていました。これなら熱いものが苦手なリリーフにも飲めそうです。
こくりこくり。
火傷をしないように気を付けてハーブティーを口に入れたリリーフはその瞬間にパッと口内に広がったまろやかな香りに驚きました。そして、蜂蜜を垂らした紅茶のような甘くて濃厚な味が舌全体に広がり、リリーフの耳がプルプルと震えました。そのまま嚥下すると今度は胸に光を灯されたように、一瞬にして胸が暖かくなったように感じました。今この瞬間自分の胸にお花畑が広がっているのかもしれない、とリリーフは思うほどです。灯された光が少しずつ全人を照らして、つい先ほどまで体にまとわりついていた深い夜の影がこそぎ落とされていくようです。リリーフはまたマグカップに口を付け、ハーブティーを味わいました。カチカチに凍っていたものが尻尾の先までほどかれていくようです。
「気に入りましたか?」
聞きなれない声にはっと思い出しました。リリーフはいま、住み慣れた自分の小さな部屋ではなく、名前以外何も知らない迷い鳥の森に住む不思議なフクロウの家にお邪魔になっているのです。ソファにほとんど体を預けて溶けそうになっていたリリーフは急いで上体を起こし前のめりになってロロさんに向かいました。
「このハーブティーがとっても美味しくて!すみません…、暖かいものを飲んだら一気に疲れが来たみたいで…」
「いいんですよ。カモミールは心の縺れをほどいてくれるハーブですから。疲れていたんですねぇ」
言いながらロロさんはリリーフに1枚の紙を渡しました。恐る恐る紙を受け取ってみるとそこには丁寧な地図が描かれていました。ノイの街への帰り道が記されているのです。
リリーフは地図を大事に胸に抱えてから、コートの右ポケットへ入れました。ありがとうございます、と座ったまま頭を深く下げてお礼を述べるとロロさんはにっこりと微笑みました。
「もう少し疲れを癒していくのは構いませんが、泊めてはあげませんからね」
そう茶目っ気たっぷりに言われてリリーフは頬を真っ赤に染めました。そんな不躾な奴だと思われてしまったなんて、そう思うとせっかくリラックスしきっていた体がまた固まっていくようです。
ーーーーああ、またやってきた!
夜の闇よりもずっと陰湿で、重たく、粘着質なそれはいつもリリーフを困らせていました。それは、ほかでもないリリーフ本人だけれどもリリーフにとっては世界のどんなものよりも疎ましい敵でした。
ーーーー馬鹿で、図々しくて、とんでもない無礼な猫だと思われているに決まってるわ。
それはいつも幼いリリーフの声で話します。まだリリーフが木登りやスカートが捲れ上がるのも気にせず走り回っていた、少し勝気な子猫だったころの声です。今のリリーフよりずっと甲高く、まろやかな響きをしているのに、リリーフの痛いところを的確につついてくるのです。
「あの、すみません。私、お邪魔してしまって。こんな非常識な時間に。もう帰ります…後日絶対にお礼をしに来ますから」
そう言って立ち上がろうとするリリーフをロロさんは眺めていました。そして、マグカップをソファのすぐ横のテーブルに置こうとする手を翼で押しとどめました。
「どうせならゆっくり一杯飲んで行ってくださいな。帰っていただいてもかまいませんが…なに、どうせ今日はもう寝るところだったんです。」
そしてロロさんは近くのソファに自分も座ると自分用のハーブティーを飲みました。そんな様子にリリーフは困惑して立ち上がることもできませんでした。
「それよりどうしてこんな時間に森へ?」
「…最近仕事も、人間関係もうまくいかなくて、落ち込むことが多くて。それで少し気分転換に散歩でもしようと思ったんです」
話しながら恥ずかしくなってリリーフは俯きました。
ーーーーあんたのことなんてだーれも大切に思っちゃいないんだから。
歩き始めてすぐに、あの意地悪な内省の声がしたのです。それからは…丘から転がり落ちるようにリリーフは自分の頭の中に引きずり込まれてしまいました。
「ぐるぐる思い詰めてあーでもない、こーでもないと考えていたら周りが見えなくなって…気が付いたら森の中にいたんです。バカみたいだけど…」
俯いてリリーフは手元のハーブティーを眺めました。もうほとんど残り少ないカップの底にはリリーフの落ち込んだ冴えない顔が映っています。
「俯いてばかりいるからかもしれませんよ」
「え?」
「俯いて、足元ばかり見ていると、いろんなものを見落としてしまいますからねぇ」
ロロさんを見るとロロさんはハーブティーを飲みながらぱちぱちと揺らぐ暖炉の焚火を見ていました。はっと気づいてリリーフはコップの底に映った自分の顔ではなく、優しい音を立てて燃える炎や、オレンジの光に照らされて映し出されるロロさんの室内を見遣りました。天井からぶら下がるドライフラワーや、戸棚には分厚い本がぎっしりと並んでいます。何よりロロさんの言葉や表情は穏やかで、リリーフの意地悪な心の声がいっていたようなことはちっとも考えていなさそうです。
リリーフはマグカップをとって飲み干しました。今度は水面に映る自分の顔なんて見ずに。
「ロロさん、本当にありがとうございました。私そろそろ行きますね」
「ええ、お気をつけて」
玄関まで見送られ、玄関ドアをくぐるとリリーフはすぐ向き直って深々とお辞儀をしました。
「本当にありがとうございました。絶対に絶対にお礼をしにまいります」
「おやおや、では楽しみに待っていますね。ノイの街はおいしいお酒が多いので、楽しみです」
お酒もお好きなのね、とリリーフはくすりと笑って「分かりました」と返して帰路につきました。見上げると夜空には大きな丸い月が青白い光を灯しています。その時初めてリリーフはずっとお月様がリリーフを見守ってくれていたことに気が付きました。ずっとずっとひとりぼっちだと思っていたけれど、お月様は最初から最後までずっとリリーフを照らしてくれていたのです。
ーーーーーー足元ではなく、見上げてみればすぐ気が付いたはずなのに…。
リリーフは一度頭を揺すって自分の考えを外へ追いやりました。
「今気が付いたんだから、いいじゃない」
そう呟いてから歩み始めました。家路に着いたリリーフをお月様はどこまでもどこまでも追いかけてくれていました。
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Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。
文・絵 森野 きつね
第1話
迷い鳥の森の賢者
白い毛並みのネコのリリーフは、スカートの裾に絡まった何かの枝を申し訳なさそうな手つきで振り払い、自信のない足取りで先へ進みます。
自分が進んでいる方角が正しいかどうかは、まったく自信がありませんでした。リリーフは肩を落としてとにかく歩きました。
本当ならもう暖かい自分の家について、ベッドの中でメソメソ泣いて、深夜まで意地悪な自分の心の声を子守歌に眠りに落ちるはずでした。…そう思うと、いま深い森のなかで迷子になっているのは家に帰ってメソメソするよりもうんとマシにも思えます
ーーーーガサガサ!
リリーフのすぐ背後で物音がしました。
大きな何かが無理やり木々の間を通ったような、あるいは小さな何かが茂みに飛び込んだような、そんな音でした。その音を聞いたとき、リリーフは叫びすらしませんでした。正確には叫ぼうとしましたが、まったく声が出なかったのです。
ちょうどその時、家に帰るよりも森で迷子になることはマシだと思う少しばかり後ろ向きの楽観的な考えは、その場に勇気と共にぼとぼとと落ちてしまいました。今のリリーフの手元に残っているもので、リリーフを前へ進ませるのは「とにかく歩かなければどこにもたどり着かない」というもうここ数時間何度も自分に言い聞かせた言葉だけです。
声も出ないほど固まって動けなくなっていたリリーフですが、ゆっくりと歩み始めました。とにかく歩いてこの深い森から抜け出したいのです。
ーーーーよりにもよって迷い鳥の森(フレアローレンの森)で迷子になるなんて。
光一つない鬱蒼とした森は青白い月の光を浴びて濃い影をいくつも地面に伸ばしています。その影一つ一つに恐ろしい伝承の生き物がいても不思議ではありません。
どんな森にも不名誉で迷信深い言い伝えがあるものです。もちろん、迷い鳥の森もその例に漏れず、恐ろしい言い伝えが残っています。動物たちは基本的に自由気ままで、住み家をやたらめったら変えることを好むのは今や歩き始めたばかりの子羊ですら知っていることです。しかし、時々偉大な自然の気まぐれな手によって思いも寄らない場所へ連れてこられてしまうことがあります。そういった人たちの多くはこの迷い鳥の森に辿り着くのだとまことしやかに囁かれていました。迷信深いリリーフのおばあちゃんは決まってこう言いました。
「あの森が動物の目には見えない何か大きな手を伸ばしてなんの罪もない動物たちを捕まえて、引き寄せているんだ。あの森は生きている!森の格好をした魔物なのさ!大きな口をあけて、哀れな動物たちを・・・待っている!」
リリーフはキジ猫のおばあちゃんの不思議なべっこう色の目がカッ!と見開かれるたびに息を潜めてシーツを抱きしめました。ヒッ!と大変情けない声をあげながら。おばあちゃんはいつも「だからいい子にしなければあの森に引き寄せられてしまうよ」と締めくくりました。大人になったリリーフはそれが子ども騙しだということはわかっていましたが、今こうして森に迷い込んでいるところを鑑みると、おばあちゃんはずーっと正しかったのかもしれないと思わざるを得ません。
ほとほと歩き疲れて、森の道中に希望も、夢も、自信を含めたあらゆる感情を落っことして求愛に失敗した孔雀のようにトボトボ歩いていたリリーフの鼻がとても良い香りを捕まえました。リリーフはあらゆる自分の感覚や感情に自信がない猫でしたが、それでも嗅覚はどうしたって良いのです。都会に住む猫のリリーフにとってそれは多くの場合嫌な匂いを強く感じるだけの役に立たない能力でしたが、ここに来てその能力がリリーフを救ったようです。
「いい匂いがする…なんだろうこの匂い。お花…?」
あらゆるものを道端に落っことしたはずでしたが、どうやら好奇心だけは残っていたようです。リリーフは珍しく猫らしく匂いの元を探して進みました。
「あれ…何だろうこの光」
しばらく歩いていると真っ暗なはずの森の奥に何やら光が見えました。リリーフの白い毛並みを月明かりの青白い光ではなく、暖かい橙色の光が照らしました。
その光を発しているのはこじんまりとした、けれども森の中にあるとは思えないような素敵なお家なのでした。といっても、光はその素敵なお家の窓から細やかに漏れた室内の光のようです。中で暖炉が灯っているのか、しっかりとした煙突から煙が立ち上り夜空に色を加えていました。そのお家は大きな屋根があり、ほとんど木々や苔と共存しているようなそんな見た目をしています。あと40年もしたらすっかり森と同化してしまいそうなほどです。家の周りには穏やかな小川が流れているようでその水音はリリーフの耳をくすぐりました。小川に囲まれるようにしてポツンと残った小島のような陸地にその家は建っています。いまは暗くてあまりはっきりとそのお家の容貌がわかりませんが、きっと昼間に見たらおとぎ話の挿絵に入っているような素敵なお家に違いありません。
「…あのお家の人に道を聞いてみよう!」
久しぶりに見た暖かい光にリリーフは勇気がみなぎってくるようでした。普段なら絶対に知らない人のお家を訪ねたりはしませんが、その家にはすべてを受け入れてくれそうな感じがしたのです。リリーフはお家が建っている小島に続く小さな陸地や明らかに手作りの短い木製の橋を渡ってお家の前まで辿りつきました。扉のそばには小さな可愛らしい三角屋根のポストと「ワイズ・モンロー」と書かれた表札が出ています、そうして気がつけばあっという間に扉の目の前に立っていました。重厚なオークの木で作られたドアには菱形の小窓が付いています。ドアノッカーは何かの植物がモチーフになっているような美しい装飾がほどこされています。リリーフは恐る恐る、けれども中の住人にしっかりと聞こえるよう、ドアノッカーを3度叩きました。
「ごめんください!お願いします。迷子になってしまったんです、道を教えてもらえませんか?」
「驚いたこんな遅くに尋人がくるなんて」と穏やかな声で呟きつつオークの扉を開いたのはフクロウでした。リリーフはドッキリして、飛び跳ねました。
フクロウはこの地域ではたいへん珍しく、滅多にお目にかかれないからです。
「遅くに申し訳ありません。…道に迷ってしまって。ノイの街への道を教えてもらえませんか?」
「迷子なんて、難儀ですね。いま地図を書いてあげますから、家の中で少し落ち着いて行ってはどうですか?ちょうど、ハーブティーを淹れたところです」
え?ハーブティー?とリリーフは思いました。それに家の中に入っていいと言われたことにもリリーフは驚きました。まず自分なら夜遅くに訪ねてきた人をそうやすやすと招き入れたりしません。だからこそ、なんということでもないというふうにそのフクロウが家に招いたことには驚いてうまく返事ができなかったのです。そんなリリーフのことなどつゆ知らず、フクロウは扉を大きく開けると、スッとリリーフに背を向けて家の奥へ入って行ってしまいました。
慌ててリリーフはフクロウを追いかけました。
「ありがとうございます。歩き疲れてしまっていたので、とても助かります」
「そうでしょうとも。ノイの街からここにくるには一時間以上歩かなければなりませんから」
その言葉を聞いてリリーフはゾッとしました。まずそんなに長い時間彷徨っていたことにゾッとして、その上これから一時間以上歩かなければいけないことにもゾッとしました。
「さぁ、帰りの道もありますからね。ここで存分休んでおいきなさい。そこのソファをどうぞ。暖炉の火にあたって。いまハーブティーを持ってきます」
言われるがままにリリーフは勧められた一人がけのソファに座りました。そのソファは決して新品ではなく、ところどころに使い込まれた跡があり、薄いサーモンピンク色に色褪せて、そのうえ座り手を待ち構えるように窪んでいる代物でした。けれども一度リリーフが腰掛けると立ち上がるのが大変難しいと思えるほどしっとりとリリーフを受け止めてくれました。その時初めてリリーフは全身がカチカチに固まって緊張し、疲れ切っていたことに気がつきました。
「ほら、どうぞ、カモミールティーですよ」
リリーフが暖炉の火を眺めながらぼんやりとしているとフクロウが戻ってきました。ぼーっとしていたリリーフはそこで思い出したように居住まいを正し、フクロウからマグカップを受け取りました。
「ありがとうございます。あの…あなたのお名前をお伺いしてもいいですか?あ、私は、リリーフと言います」
「ワイズ・モンローです。友人にはロロと呼ばれているので、ロロと呼んでくださいな」
少し照れくさい気持ちになりながらリリーフは「ロロさん」と呟きました。名前を呼ばれたロロさんはまんまるな瞳をくしゃりと歪ませてほほえみました。その微笑みを見ているとリリーフは不思議と安心するのでした。
リリーフは両手で抱えたマグカップに注がれたカモミールティーを見下ろしました。暖かい湯気がリリーフの顔に当たり、髭をくすぐります。暖炉の火を浴びてカモミールティーは蜂蜜のように優しい色をしているように思えました。立ち上る湯気を吸い込むたびに胸がぼんやりと暖かく感じられ、花の香りがリリーフの小ぶりの鼻をくすぐりました。深く息を吸うたびにリリーフの胸いっぱいにカモミールの優しい香りが広がっていきました。まるで太陽の下でのんびりと過ごしているような、耳を済ませれば優しくそよぐ木々の音色も聞こえてきそうです。気が付かないうちに目をつぶってじっくりハーブティーの湯気に当たっていたようです。もくもくと立ち上っていた湯気は次第に緩やかな小川のようになっていました。これなら熱いものが苦手なリリーフにも飲めそうです。
こくりこくり。
火傷をしないように気を付けてハーブティーを口に入れたリリーフはその瞬間にパッと口内に広がったまろやかな香りに驚きました。そして、蜂蜜を垂らした紅茶のような甘くて濃厚な味が舌全体に広がり、リリーフの耳がプルプルと震えました。そのまま嚥下すると今度は胸に光を灯されたように、一瞬にして胸が暖かくなったように感じました。今この瞬間自分の胸にお花畑が広がっているのかもしれない、とリリーフは思うほどです。灯された光が少しずつ全人を照らして、つい先ほどまで体にまとわりついていた深い夜の影がこそぎ落とされていくようです。リリーフはまたマグカップに口を付け、ハーブティーを味わいました。カチカチに凍っていたものが尻尾の先までほどかれていくようです。
「気に入りましたか?」
聞きなれない声にはっと思い出しました。リリーフはいま、住み慣れた自分の小さな部屋ではなく、名前以外何も知らない迷い鳥の森に住む不思議なフクロウの家にお邪魔になっているのです。ソファにほとんど体を預けて溶けそうになっていたリリーフは急いで上体を起こし前のめりになってロロさんに向かいました。
「このハーブティーがとっても美味しくて!すみません…、暖かいものを飲んだら一気に疲れが来たみたいで…」
「いいんですよ。カモミールは心の縺れをほどいてくれるハーブですから。疲れていたんですねぇ」
言いながらロロさんはリリーフに1枚の紙を渡しました。恐る恐る紙を受け取ってみるとそこには丁寧な地図が描かれていました。ノイの街への帰り道が記されているのです。
リリーフは地図を大事に胸に抱えてから、コートの右ポケットへ入れました。ありがとうございます、と座ったまま頭を深く下げてお礼を述べるとロロさんはにっこりと微笑みました。
「もう少し疲れを癒していくのは構いませんが、泊めてはあげませんからね」
そう茶目っ気たっぷりに言われてリリーフは頬を真っ赤に染めました。そんな不躾な奴だと思われてしまったなんて、そう思うとせっかくリラックスしきっていた体がまた固まっていくようです。
ーーーーああ、またやってきた!
夜の闇よりもずっと陰湿で、重たく、粘着質なそれはいつもリリーフを困らせていました。それは、ほかでもないリリーフ本人だけれどもリリーフにとっては世界のどんなものよりも疎ましい敵でした。
ーーーー馬鹿で、図々しくて、とんでもない無礼な猫だと思われているに決まってるわ。
それはいつも幼いリリーフの声で話します。まだリリーフが木登りやスカートが捲れ上がるのも気にせず走り回っていた、少し勝気な子猫だったころの声です。今のリリーフよりずっと甲高く、まろやかな響きをしているのに、リリーフの痛いところを的確につついてくるのです。
「あの、すみません。私、お邪魔してしまって。こんな非常識な時間に。もう帰ります…後日絶対にお礼をしに来ますから」
そう言って立ち上がろうとするリリーフをロロさんは眺めていました。そして、マグカップをソファのすぐ横のテーブルに置こうとする手を翼で押しとどめました。
「どうせならゆっくり一杯飲んで行ってくださいな。帰っていただいてもかまいませんが…なに、どうせ今日はもう寝るところだったんです。」
そしてロロさんは近くのソファに自分も座ると自分用のハーブティーを飲みました。そんな様子にリリーフは困惑して立ち上がることもできませんでした。
「それよりどうしてこんな時間に森へ?」
「…最近仕事も、人間関係もうまくいかなくて、落ち込むことが多くて。それで少し気分転換に散歩でもしようと思ったんです」
話しながら恥ずかしくなってリリーフは俯きました。
ーーーーあんたのことなんてだーれも大切に思っちゃいないんだから。
歩き始めてすぐに、あの意地悪な内省の声がしたのです。それからは…丘から転がり落ちるようにリリーフは自分の頭の中に引きずり込まれてしまいました。
「ぐるぐる思い詰めてあーでもない、こーでもないと考えていたら周りが見えなくなって…気が付いたら森の中にいたんです。バカみたいだけど…」
俯いてリリーフは手元のハーブティーを眺めました。もうほとんど残り少ないカップの底にはリリーフの落ち込んだ冴えない顔が映っています。
「俯いてばかりいるからかもしれませんよ」
「え?」
「俯いて、足元ばかり見ていると、いろんなものを見落としてしまいますからねぇ」
ロロさんを見るとロロさんはハーブティーを飲みながらぱちぱちと揺らぐ暖炉の焚火を見ていました。はっと気づいてリリーフはコップの底に映った自分の顔ではなく、優しい音を立てて燃える炎や、オレンジの光に照らされて映し出されるロロさんの室内を見遣りました。天井からぶら下がるドライフラワーや、戸棚には分厚い本がぎっしりと並んでいます。何よりロロさんの言葉や表情は穏やかで、リリーフの意地悪な心の声がいっていたようなことはちっとも考えていなさそうです。
リリーフはマグカップをとって飲み干しました。今度は水面に映る自分の顔なんて見ずに。
「ロロさん、本当にありがとうございました。私そろそろ行きますね」
「ええ、お気をつけて」
玄関まで見送られ、玄関ドアをくぐるとリリーフはすぐ向き直って深々とお辞儀をしました。
「本当にありがとうございました。絶対に絶対にお礼をしにまいります」
「おやおや、では楽しみに待っていますね。ノイの街はおいしいお酒が多いので、楽しみです」
お酒もお好きなのね、とリリーフはくすりと笑って「分かりました」と返して帰路につきました。見上げると夜空には大きな丸い月が青白い光を灯しています。その時初めてリリーフはずっとお月様がリリーフを見守ってくれていたことに気が付きました。ずっとずっとひとりぼっちだと思っていたけれど、お月様は最初から最後までずっとリリーフを照らしてくれていたのです。
ーーーーーー足元ではなく、見上げてみればすぐ気が付いたはずなのに…。
リリーフは一度頭を揺すって自分の考えを外へ追いやりました。
「今気が付いたんだから、いいじゃない」
そう呟いてから歩み始めました。家路に着いたリリーフをお月様はどこまでもどこまでも追いかけてくれていました。
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Profile
森野きつね | Kitune Morino
絵本作家。
1997年兵庫生まれ。東京世田谷区在住。国際基督教大学卒業。パーソナライズ絵本制作をするSTUDIO BÜKI株式会社で絵本の企画を行なっている。いつか森の魔女になりたい。